アートな写真って結局何なの。

久々にこっちのブログを書くなあ、、、   さて、僕は中学生くらいから西洋美術が好きになり、特にパブロ・ピカソ大好きでした。  

「アヴィニョンの娘」を教科書で観た時の衝撃たるや。

image-101   その時からずっと美術が好きで、ピカソのルーツを辿り、はたまたその先に行って、色々と勉強しました。   その中で「写真ってアートなの?」という全くもって出尽くされた感のある疑問が今僕の頭の中の90%を占めていた時代がありました。   前に目黒にあるコスモスインターナショナルで新山清さんの「朝顔シリーズ」のコンタクトシートを見せて頂いたことがあって、   002 あまりのかっこよさと「あ、ティルマンスでこんな写真あった」という想いと、そこにいた写真の知識の巨人たちに「主観主義」というものをベッヒャー夫妻より以前の写真史から丁寧に説明していただいて、 今更「オレ美容師なんです。」とは言えず、脳みそが飛び散ってしまいそうでした。   しかしながら「写真ってすげーな」という想い、 そしてそこで繰り広げられていたのは、 「写真でできることはマン・レイが全部やっちゃってるから、写真の芸術性とかに悩んだりして写真が撮れなくなったりとか、それこそ『あとの(アートの)祭りだよ。はっはっは」とおしゃっていて、なんか大人の階段を登った気がしてしまいました。   で、僕は結構な数の美術家や写真家の友人がいますが、彼らは「日本では作家としてやっていくのは厳しいよ、芸術をわかる人が少ない、っていうか全然いない」と言うんです。   それはまあすごいわかるなあ、と思うし、でもそう言う人の家に遊びに行って、   有名無名関係なく、画廊とかで買った絵画とか、写真家のオリジナルプリントとか、部屋に飾ってる人に会ったことがあまりないのですね。   結局作り手側が「絵飾ろうよ、食卓が華やかになるから、ほら」とか「写真家のオリジナルプリントって語れるところ本当に多いんだ、だから所有する価値があるんだよ、例えばブラッサイとかさ、、、」と相手選ばず空気を読まず、語りまくってたらなんか変わるんじゃないか、と。   そう、「アートを身近に」しない限りそりゃ生きてはいけないよね。作家は。  

でも「アート」なものってべらぼうに高い(と思われてる)し、何で??って感じですよね。

  例えば images-7 こちら、イブ・クラインという画家のれっきとした「絵画」です。   「カラー・モノクローム」なんて言われておりますが、要は単色で塗った、そういう絵です。  

こちらの絵はなんとサザビーズのオークションで7億円くらいで落札されたとか、、、(確か)

  ま、実際僕はこのあたりのイブクラインやポロックやニューマンが大好きなので、わからなくもないのだけれど、 art15_01 (ジャクソン・ポロック) アートに明るくない方は「キャンバスに一色塗って何億だったらオレ(私)にもできるわ!」と総ツッコミ入れたくなるでしょう。   では現在のアートって一体なんなのでしょう。   それは「方法」から「作家のコンセプト」に注目すべしっていうことに変わった、そういうことです。   いわゆる「コンプチュアル・アート」がそのまま「コンテポラリー・アート(現代美術)」と言える、、のか?多分そうです。   例えばこのイブ・クラインの絵も、そもそもこの顔料を本人が作ったものだし(インターナショナル・クライン・ブルーという名前で今もどこかで買えるらしい)、そもそも単色の絵画ってなかったわけ。   ポロックとか、マーク・ロスコとか、その辺も飛び越えて、「青でいくぜ俺は」という気概。 0d40a5e4a645fc6b96e767d64ac0878e (マーク・ロスコ)   小学生とかで「空の絵描いてこい」って言われて青一色で提出する子供がどれくらいいるでしょう。   きっと雲や太陽や謎の生命体を描きたくなるところでしょう。   そう、「青一色」の絵なんかなかった。だからこそみんなは驚く。誰もやったことのないことをやったわけだから。   で、作家自身がそのコンセプトを(例え後付けだとしても)語れるわけですね。   で、この方はもう亡くなっている。もうこの絵画は複製できない。たった一色の絵というある意味アートの歴史の中でも極めて「事件」な作品。   そうなると、青が綺麗とか塗り方がどうとか、そういうことじゃなくて、イブ・クラインがこの絵を仕上げるに至った時代的背景、アートの歴史の中での重要性、そして同じものがないという希少性、そこに値段がつくわけですね。   そう考えたら、お金をたくさん持っているアート収集家が「欲しい」と思うのも納得できますよね。僕は欲しいです。今は買えないけど。   で、前置きが長くなりました。写真ですね。   そもそも写真っていくらでも複製できるじゃん!っていうことなのですが、   まず「売る写真」にはエディションというのがつけられます。シリアルナンバー的な。例えば「この写真はエディション5ね。」と決まったら、5枚しかプリントできません。   なぜなら同じものが500枚流通してしまったらその1枚の価値はなくなり、値段がつかなくなるからです。   「でも絵と違って写真は撮るだけ。そんな高い値段がつくのはよくわからないなあ、、」   うん、じゃあこの写真を見て欲しい。 CgFBJpPUAAEzMs7 ライアン・マッギンリーの、正真正銘「写真」です。  

多分これって、絵で表現した方が遥かに簡単にできそうな気がしませんか?

  雪山のでかい氷柱に裸の人間が登って行ってるんですよ。とんでもないアイデアでとんでもなく作品のためにリソースを割いている。   しかしすごいですねえ。人が写ってなかったらまあよくある壮大な自然の写真なのに、ちっさい人が写っているだけで見方が全然変わる。   例えばこの写真のオリジナルプリントが世界に1枚しかなくて、撮った人はアメリカで最も重要な写真家であるライアン。この写真を飾る部屋を想像してみてください。最高でしょ。   希少価値があるから値段が上がる。まさにキャピタリズムの最たるものですね。それを小馬鹿にしてアートにしたのがアンディ・ウォーホルやヨーゼフ・ボイスですが、またこの話は長くなるので置いておいて、、、   そして最後に紹介したいのが、

リチャード・プリンスです。こんな人。

met museum Richard Prince Untitled cowboy ちなみにこの写真は、タバコのマルボロの広告を写真に撮って、それの文字だけ消して作品として発表したわけなんですが。   いや、パクリやん。てなりそうなもんですが。   まあ実際に訴えられて年中裁判やっているような方ですが。   まず考えとして、ビルとかにかけてあるでっかいビルボードとかのポスターってあるじゃないですか。   で、空を見たくて見上げたらそれが目に入ることってありますよね。見たくないのに。   こっちは見たくないのに勝手に目に入ってきたものに著作権なんかあるのかよっていう、そういう話で。   つまり写真のうまさとかそういう話じゃなくて、著作権っていうものとか、既存のイメージを操作することでアートにしちゃう、しかもそれはアンディのようなシルクスクリーンではなく、写真で。   だからめちゃくちゃ頭良いのですね。今でいう「ネットを荒らす」みたいな、炎上的な感じ?かなあ?   そうやって「資本主義とアート」みたいなものに一石を投じた問題提起そのもの。そういう写真なんです。   それってさっきの青一色のイブ・クラインと同じ。アート収集家は欲しがりますよね。  

その作品自体が「事件」なわけだから。

  そしてこの手法って音楽のサンプリングってことだし、シュミレーショニズムっていう話なんですが、   もう書く体力と脳がなくなってしまったのでやめておきます笑   では。